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泗川船津里倭城|李舜臣将軍と亀甲船、朝明軍塚の歴史

泗川船津里倭城

韓国南部、慶尚南道(キョンサンナムド)泗川市(サチョン市)にある「泗川船津里倭城(사천 선진리왜성)」は、豊臣秀吉による朝鮮侵略の歴史を今に伝える城跡です。

海に近い丘陵に築かれたこの城は、一般に「泗川倭城」とも呼ばれています。周辺の海域では、李舜臣(イ・スンシン)将軍が率いる朝鮮水軍と日本水軍の海戦が繰り広げられ、近くには戦争の犠牲者を葬った墓も残っています。

城跡と周辺の史跡を巡ることで、韓国と日本の歴史が交差した時代について知ることができます。

李舜臣将軍と亀甲船が活躍した泗川海戦

1592年、豊臣秀吉による朝鮮侵略が始まると、朝鮮水軍を率いた李舜臣将軍は、日本水軍との海戦を繰り広げました。

同年5月、現在の泗川周辺の海域で行われた「泗川海戦(사천해전)」では、亀甲船(きっこうせん)が実戦に投入されたことで知られています。

亀甲船は、船体の上部を覆った独特の構造を持つ朝鮮王朝時代の軍船です。敵兵が船に乗り込むのを防ぎながら、砲撃などによって攻撃することを想定していました。

李舜臣将軍と亀甲船の活躍は、韓国の海軍史を語るうえで重要な出来事の一つです。

1597年に築かれた泗川倭城

1597年、朝鮮への再侵攻が始まると、日本軍は朝鮮半島南岸の各地に倭城と呼ばれる日本式の城郭を築きました。泗川倭城もその一つです。

この城は毛利吉成(もうり・よしなり)ら日本側の武将が築城に関わったとされ、海上交通や周辺地域の軍事的な支配を支える拠点となりました。

翌1598年10月には、明軍と朝鮮軍の連合軍が城を攻撃しました。この戦いは「泗川の戦い」として知られ、島津義弘(しまづ・よしひろ)らが率いる日本軍が連合軍を撃退したと伝えられています。

1592年の泗川海戦と1598年の泗川の戦いは、同じ地域で起きた別々の戦闘です。前者は朝鮮水軍と日本水軍の海戦、後者は泗川倭城をめぐる戦闘として区別すると理解しやすいでしょう。

復元されている倭城の城門

現在の城跡を散策する

現在の泗川倭城では、丘陵の地形を生かして築かれた城郭の構造や石垣などを見ることができます。当時の日本式城郭の特徴を知るうえで、貴重な歴史遺跡です。

城跡周辺は公園として整備されており、季節によっては桜などの自然も楽しめます。歴史に関心のある方はもちろん、静かな場所を散策したい方にもおすすめです。

なお、現在見られる石垣や城門には、後年に整備・復元された部分もあります。現存する遺構と復元された部分を意識しながら見学すると、より興味深く感じられます。

近くに残る泗川朝明軍塚

泗川倭城を訪れたら、周辺にある「泗川朝明軍塚(사천조명군총)」にも注目してみましょう。

この墓は、1598年の泗川の戦いで命を落とした朝鮮・明連合軍の兵士たちを葬った場所として知られています。城跡とあわせて訪れることで、戦争に勝利した側の歴史だけでなく、戦いで命を落とした人々についても考えることができます。

なお、朝明軍塚は、朝鮮・明連合軍の戦死者を葬った墓です。日本に持ち帰られた耳や鼻を埋めたとされる「耳塚」とは異なる史跡なので、混同しないよう注意が必要です。

韓国南部の歴史を知る旅へ

泗川船津里倭城は、李舜臣将軍と亀甲船が活躍した海戦の歴史、豊臣秀吉による朝鮮侵略、そして1598年の泗川の戦いを一つの地域でたどることができる史跡です。

釜山からは距離があるため、泗川市内や晋州(チンジュ)などの歴史スポットと組み合わせて訪れるとよいでしょう。

城跡と周辺の史跡を巡りながら、400年以上前の戦争が韓国と日本の歴史に残したものについて考えてみてはいかがでしょうか。

基本情報

項目内容
名称泗川船津里倭城(泗川倭城)
韓国語사천 선진리왜성
所在地韓国・慶尚南道泗川市龍見面船津里一帯
築城時期1597年
関連する歴史文禄・慶長の役(壬辰倭乱・丁酉再乱)
関連人物李舜臣、毛利吉成、島津義弘
主な見どころ城跡、石垣、城郭の構造、周辺の公園
周辺の史跡泗川朝明軍塚(사천조명군총)
観光タイプ歴史遺跡・城跡散策
見学時間の目安約30~60分(周辺散策を含む目安)
アクセス泗川市内からタクシーなどで移動
ご案内
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